PCカーテンウォールの源流 第3回
東京大学大学院 新領域創成科学研究科 環境学専攻 助教授・博士(工学)
清家 剛
本連載は、4回にわたりPCカーテンウォールの発達の歴史を振り返り、現在の技術の原点となった建物を紹介するものである。今回はその第3回として「建築の表現としてのPCカーテンウォール」について紹介したい。尚、この原稿は1994年にプレコンシステム協会より出版された「ファサードをつくる」の内容を、再編集したものである。
第3回「建築の表現としてのPCカーテンウォール」
外壁パネルからカーテンウォールへ
これまで紹介してきたように、化粧材としてのPCaが発達する中で、パネル化により外壁全面を構成しようという動きが始まった。PCaパネルによる外壁の表現は、無開口のパネルから開口部を持つパネルへ、そして低層から中高層建築へと幅を広げて、昭和39年に登場した3つの建物により、建築の表現としてのPCカーテンウォールとなって結実するのである。
昭和30年代後半には、それらの過渡的な作品がいくつか見られる。その中でも注目すべき作品のひとつに前川國男による昭和38年の呉服橋ビルがある。ここでは基本的に無開口の面をPCaパネルによって構成しているが、部分的に開口部を設けているところがある。
さらに注目すべき作品として、東京工業大学清家研究室によって設計された昭和38年の埼玉農林会館があげられる。ここで清家清は、事務空間が外部に面する3面全てに縦のルーバーを実現しようとしたが、コストを下げるため正面のみをPCaパネルで構成することとなった。その姿はルーバー的なリブの付いたデザインであるが、開口部を有したPCaのパネルで外壁全面が構成されており、PCカーテンウォールの最も早い例の一つと位置付けられる。ただし設計者は最初からPCカーテンウォールによる表現を狙っていたのではないことが、翌年に登場する3つの作品と異なる点である。[続きを読む]